2015年10月4日日曜日

中畑監督の辞任

昭和56年に藤田監督が就任したとき、中畑選手はサードで、ルーキーだった原選手はセカンドだった。中畑選手がケガをし、空いたサードに原選手が回り、空いたセカンドに(守備面では本職の)篠塚選手が来たところ、篠塚選手が打ちまくり、阪神の藤田平選手と首位打者争いをするまでになったので、中畑選手のケガが治ったときにサードに戻るという選択肢がなく、山本功二選手と、大洋から来た(すでに2000本安打を達成していた)松原選手との併用だったファーストに回ることになった。藤田監督の3年間は、優勝(日本一)、2位(中日が優勝)、優勝(日本シリーズで西武に負け)だったわけですが、3年目の58年には槇原の初登板・初先発・初完封などもあり思いで深く、中畑選手はいつもいいところで打つ選手だったのを覚えています。あるとき、次打者が原選手で、テレビで見ていて「頼むからゲッツーはやめてくれ、次打者に回してくれ」と思っていたら、中畑選手がサヨナラ・ヒットを打ったりしたこともありました。また、平成元年の近鉄との3連敗4連勝のとき、すでに引退を決めていた中畑選手が第7戦でホームランを打ったのも昨日のように覚えています。

報道によれば、中畑さんがDeNAの監督を辞任する意思を固めたとき、球団側は遺留に努めたとか。「カネ勘定」という意味で考えれば、DeNAは優勝する必要がないチームなんでしょうし、人気のある監督がいてくれることで、関係者にとって宣伝効果は計りしれないものがあるんだろうと思います。

一方、日本に12人しかいないプロ野球チームの監督でなくなって、生活面とかの不安がまったくなかったのかしら?と心配になったりするのはこちらも齢をとったからかもしれません。確かに、今回、監督をしたことで、政界進出を試みたことによって着いた色は落ちたわけで、もともと人気のある選手でしたから、今後の不安はないのかもしれませんね。でも、定職があるのと、頼まれない限り仕事(収入)がないというのとでは、精神的な違いは大きいのでは?と、庶民としてはやはり少し心配にもなります。

思ったのは、勝負の世界で、結果を残せない人が「人気があるから」といって職にとどまると、本人にとってはよくても、組織にとってはよくないのだろうということで、もしかすると、中畑監督はそれを一番嫌ったのかもというものです。自分のことだけ考えれば、定職があるほうがいいのだろうし、また、来年優勝できないとは限らないわけで、そうしたらさらにいろいろと安泰ですよね。でも、結果に責任を取らないと、結果によって評価されるスポーツの世界にはいられないという判断だったのでしょうか。

世の中、カネは欲しいは、楽はしたいは、属している組織のモチベーションなんかどうでもいい、という人が多いように思われる中、すがすがしいと思いたいのは、あの時期の巨人を知っているからなのかもしれませんが。