2014年3月22日土曜日

失敗する自由とパターナリズム(投資編)

確かに、自由主義・資本主義の下では、投資に失敗する自由があって然るべきなのでしょう。

しかし、素人は知識がないから素人なのであって、それにつけこむプロがボロ儲けすることはあまり許されるべきことではないのでしょう。また、そもそも論として、一般論として誤った判断をすることを放置しておくことは、それはそれであまり許されないような気がします。

私自身は基本的には放置的自由主義者というか、リバタリアンなのだとは思いますけれど、それは自分の知識にある程度自信があるからであって、知識の乏しい人に失敗する自由を与えすぎるのはよくないようにも思います。

言ってみれば、西洋医学を全く信じないという人がいたとき、その人が西洋医学の素晴らしいところと限界を充分に認識した上で、それでも西洋医学を拒絶すると言うのであれば、それは、賛成するかどうかは別としてもその人にとっては正しい判断なのでしょう。しかし、横文字が嫌いだとか、刃物が嫌いだといった情緒的な理由で西洋医学を拒絶する人がいたとすると、一般的には、一所懸命説得を試みるのでしょう。

という話を、イギリスの年金改革の話についての記事を見て思いました。どの国も大変ですよね。この記事にあるように、確かに自由は確保しなきゃいけないのだろうけれど、一般論として正しい方向に導いてあげるというのは大事ですよね。

ただ、年金≒投資、ですから、これってもっと大きな意味があるようにも思います。要するに、「アホな投資はするな」というのをどこまでパターナリスティック的に押し付けるかです。高名な弁護士で金融機関側の人などは、どんどん失敗させろという論のようですが、それでいいんですかね。

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