2013年4月18日木曜日

文豪とデフレ

 子供(といっても中学・高校生)の頃に読んだ文学作品の印象というのは、大人になってから読むと随分変わるものです。

 こちらが人生経験を積んだ分、味わえるようになったというのは格好がいいのですが、実際は、年齢を重ねた分、主人公に感情移入できる幅が広がったに過ぎないようにも思います。実際、別に山椒大夫を読んだところで昔より感動するわけではありませんし、三四郎、それから、こころ、などといった原則として独身の男性が主人公になっている話についても深みを感じるわけではありませんが、行人とかは結婚してみると感情移入しやすいし、彼岸過迄とかも純粋培養されていたときに読んだのとは違う深みを感じます(三四郎などは純粋培養されていても感情移入しやすい)。

 舞姫は、子供のときに読んだのよりは嫌悪感が少なく、社会人になってみて人に認められないと飯が食っていけないという現実が分かるとそれはそれでしょうがないのかなという気もしています。真珠夫人とか貞操問答とかは子供のときには読みませんでしたが、大人どころか自分も中年になってみると、ふむふむと思うところも多く、子供の頃すっごく読後感の悪かった布団も、読後感の悪さは相変わらずなものの、主人公の悲哀は当然子供には分からないわけで、深みは感じられます。人間失格も、子供のときに読み始めて、気分が悪くなってやめてしまったのですが、中年になって読んでみると、自分ではとてもああはならないしなれないものの、感情移入できるだけの人生経験はしたんだなぁーと思います。

 逆に、「走れメロス」とか「恩讐の彼方に」とかは、子供だましというか、現実の社会をしらない子供の頃に読むと感動するのは分かるけれども、世の中の汚いことをいろいろと知ってしまうと、空虚な感じもします。もちろん、無償の友愛とかは存在するのでしょうけれど、別にそんな話をあんまり時間かけて読みたいともおもわないなぁーなどと思います。

 でデフレの話ですが、黒田日銀の金融政策によって国債利回りが乱高下し、かつ、実は国債利回りが下がっていないので実質金利が下がっているかどうか目に見えない(国債利回りは名目金利ですし、実質金利のもうひとつの要素である予想インフレ率は目に見えない)ということもあり、懐疑的な、あるいは、攻撃的な論調も引き続き見られます。私は、これまでのデフレに比べれば、日本が過去に経験した程度であれば狂乱インフレのほうがましだと思いますし、あのレーガン政権化の金利20%というのだって、別にそれによってアメリカ経済が崩壊したわけではありませんから、別にいいじゃんと思っています。つまるところ、根本のところで、デフレというのは(前からなんどもいってますが)安定した収入と貯金がある人にとっては望ましい社会状態なので、その人達がリフレ政策を攻撃してもなんの説得力もないのです。結局、人というのは経験したからしか感覚を持ちえないというか、安定した収入がある人にとっては、デフレというのがどれだけ社会を蝕んでいるのかわからないんでしょうね。

 経験しないと分からないというのが、文豪の作品と経済評論の共通点というのがオチでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿